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おぎりんのblog♪昭和100年と99歳の父
2025.04.03
カテゴリー:BLOG
今年は昭和100年にあたる年です。この100年を両親の人生なども交え、振り返りたいと思います。西暦でいうと、昭和元年は1926年。2025年の今年は昭和100年に相当します。ただ昭和元年は12月25日に大正天皇が崩御され、同日昭和天皇が践祚されたという事で、ほぼ1週間です。
で、わたしの父が生まれたのが大正15年3月15日。まさに昭和元年と同じ年。したがって今年の3月15日で、父は満99歳、数えではすでに100歳という事になります。そこで、この3月にわたしと長男、わたしの弟の3名で大阪松原市の介護施設にいる父を外出させてもらい、美味しいお寿司屋さんで楽しくお祝いをしました。数え100歳という事でわたしから「百寿」の記念品を、弟からは阪神タイガース村上投手(今季の開幕戦先発で勝利投手)のユニフォームを贈りました。父はとても喜び、ビールを2杯に日本酒まで飲んで、上機嫌でした。
母が亡くなったのは、コロナ禍が始まった2020年の7月でした。母も父と同じく大正15年生まれです。生前は母のほうが長生きすると思っていました。元々本当に丈夫な人で、亡くなる2年前に大腿骨骨折で入院するまで、出産以外で入院歴もなかったからです。対して父は72歳で直腸ガンを患い、手術を受けています。その後、当然ながら人工肛門で生活しています。というような事からして父が99歳を迎えたのは本当に驚きでもあります。
父もさすがに、2年前から自身での歩行ができず車椅子生活になっています。しかし、頭はまだかなりはっきりしていて、一昨年ガラケーをダメにしたため、スマホを購入し、使用法を教えました。テキストを打つのは出来ませんが、電話をかける、受けるは出来ています。電話をかけてきて自身の用事が済むと、こちらから用事があってもさっさと切ってしまうのは困りものですが。
そんな父ですが、生まれ育ちは兵庫県の氷上郡氷上町(現在の丹波市)です。お兄さんがいましたが、幼くして亡くなっており、ほぼ一人っ子状態、父親も早逝し、母1人子1人で育ったようです。
大阪育ちの母も父親のルーツが丹波にあり、当時の事ですから、親戚の誰かが働きかけて結婚に至ったのだと思います。父は年齢からして兵役に行きましたが、主計(経理担当)であった事から戦地には行かない業務という事もあり、入隊後はとんでもない暴力を受けたそうです。直腸がんの遠因もその頃の暴力にあると言っています、戦後、兵庫県の電気メーカーに勤めていましたが、結婚を機に、母の父親が起業していた菓子問屋で働く事になったようです。
わたしの幼少期には、母の両親と同居していましたから、まさにマス夫さん状態だったわけです。卸業者としてまずまずの規模となり、堅実な経営をしていたようです。その後。祖父が亡くなり、父が社長としてこの卸店を率いていました。まだ祖父が存命中から、わたしも冬休みなど仕事を手伝っていました。わたしが高校生時代、最も売上げの多い取引先が、当時最大のスーパーマーケットのダイエーさんでした。当時から同社への納品に際しては、売価を表示するのが卸店の仕事でした。まだラベラーなどという道具が無い頃には、お菓子の個包装一つ一つにマジックインキで手書きしていました。そのうち小さな数字のハンコでラベルに押して貼り付けるようになり、ようやくわたしが手伝いを卒業するころにラベラーが登場しました。現在はJANコードが表示されているのが当たり前で想像も出来ないかと思いますが、レジで販売価格を手打ちしていましたから個包装に価格が表示されている必要があったのです。
現在も卸業のバラピッキングなどの作業があってこそ、小売業のオペレーションが成立していますが、当時の卸業の工数負担は非常に大きかったです。
その後、ダイエーさんの全国展開には追従せず、取引も解消しました、売上げと社員がどんどん膨らむが、利益が取れなかったからでしょう。そうして、手堅く商売をしていたとは思いますが、数年後に卸業を廃業しました。まだ店も自前、バブルのはしりというタイミングで土地が良い値段で売却できたため、買掛金もすべて支払い、従業員たちへの退職金もすべて支払った上での廃業でした。
倒産ではなく、本当にきれいに商売をやめたという事で当時の大阪府菓子卸業組合から表彰された事が記憶に残っています。その後、大阪の中小の菓子卸業がバタバタと倒産した事を思うと、父の決断は正しく、よく思い切れたと感じます。
その後、父は事務職やミナミの大型喫茶店の店長(この時、なぜか浪速のモーツァルトことキダタローさんの取材を受けています)等々、様々な職種を経験、最後は某菓子メーカーの大阪営業所長をしていました。わたしも弟も社会人になっていましたから、母との生活を支えるだけとはいえ、経営者を経験した人が他人に仕えるのは、なかなかメンタルのコントロールが難しかったと思いますが、きっちりと勤め上げていました。
母もずっと父とともに卸業で仕事をし、事務や計数管理が出来る人で、夫婦揃って働き者でした。母の父は、孫たちには甘かったですが、やはり明治生まれで起業した人ですから、なかなか一筋縄ではいかない昔人間。父も母も辛かったと思いますし、家に伝票などを持ち帰って残業?もしていました。
で、かくいうわたしは、幼少期ひどい偏食、そのせいか病弱で両親ともに苦労したと思います。3月生まれなので、両親が小学校に上がるのを一年ずらそうかと真剣に考えたような子供でした。小学校から中学校、高校と成長するにつれ、偏食も無くなり、大きな病気もしませんでした。それでも高校3年生時が70年安保の年。学園紛争があり、わたしも教師に素直に従うという態でもなかった事から、かなり心配をかけました。
それでも、浪人もせず現役で大学に進学、卒業と共にユニ・チャーム株式会社に入社。とにかく体育会系の厳しい会社でしたが、なんとか頑張り、43歳で人事部長を拝命した時には、日本経済新聞にその人事が掲載され、両親ともに非常に喜んでくれました。
私生活でも32歳で結婚、翌年初孫誕生。その後東京本社事務所に転勤。両親は毎月のように我が家に来て、東京見物を楽しんでいました。
ずいぶんと長文になりましたので、そろそろ筆をおきたいと思いますが、父母には、やはり恩義を感じるとともに、楽しいときも提供、2人の人生を支援できたように感じています。現在も父の施設生活における年金の不足を支援しています。
戦中戦後の大変な時期を乗り越え、卸業の経営や、廃業後の勤労において常に誠実に社会に貢献してきた両親を尊敬しています。たくさんの良き形質を伝えてくれた事、なかには体内に石が出来やすい(胆石や結石)というよろしくない遺伝形質もありますが、病弱なわたしを無事に育ててくれた事をはじめ、感謝にたえません。わたしがこの先、父ほど長生きするかどうかは、わかりませんが、もっともっと人生を楽しみ、社会に貢献していきたいと思っています。
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